現代日本における呪術とその意味

 一般には「呪術」というと何とも古めかしく、古俗因習の遺物という響きさえある。野蛮な原始部族が信奉したり、古代日本に行なわれていたらしい、オドロオドロシイものというイメージ。また、「呪」という字からも想像できるが、人を呪ったりする黒魔術というイメージ。そんなところだろうか。

 ところがである。なんとこの現代日本においても、呪術はたいへんに盛んなのである。それも若い世代にその傾向が著しい。おそらく、いま日本で呪術を最も信奉しているのは十代の少年少女たちだろう。一見、呪術なんぞというものとは無縁と思われる彼ら彼女らが、なぜ呪術なんかに熱中するのだろうか。

 念のために『広辞苑』の釈義を引いておこう。

    超自然的存在や神秘的な力に働きかけて種々の目的を達成しようとする意図的な行為。未開・文明を問わずあらゆる社会に見られる。

とある。これに、

    超自然的存在や神秘的な力の働きを信じ、その影響が現実に及ぶと考える思考のあり方。

ということも付け加えておきたい。

 まずは、新世代における現代日本の呪術を概観しよう。彼らの自己紹介には、西洋占星術の星座と正体不明の血液型は不可欠のアイテムだが、これらは超自然的、神秘的な力の働きを信じる立派な呪術である。週刊誌の毎週の星占いは、彼らにはなくてはならぬご神託である。

 さらにズバリ、「おまじない」という呪文を彼らは毎日のように唱えている。たとえば、片思いの彼や彼女に自分の思いが通じ、願いが叶うようにと。しかもきちんと、おまじないの文句の体系まで整っている! そればかりか、怨みを晴らすやり方さえある。これらを呪術と呼ばずして何を呪術と呼ぼうか。

 呪術そのものとは言えないかも知れぬが、その世界に近いものがまだまだある。生まれ変わりの信仰だ。自分がただ、いまの平凡な人間でしかないと思い続けている中学・高校性はむしろ例外だろう。UFOと交信している子どもは多いし、超能力や心霊現象にのっぴきならぬ関係を持っている少年少女も数多い。

 映画「学校の怪談」シリーズが流行っているが、言うまでもなくその前提として、自分の学校や地域に幽霊や怪物が徘徊していることを、心のどこかでは信じているわけだ。「都市伝説」という不可思議なウワサ物語もある。たとえば、著名テレビ番組の最終回がもうすぐ放映され、それとともに世界の終末がやってくるとか、格安のとあるハンバーガーショップは実はネコ肉を使っているのだ、とかいうようなものだ。

 現代日本に、呪術と呪術的世界は間違いなく生きている。ではなぜ彼らは呪術を信奉するのだろうか。人間として未成熟な子どもという一時期にありがちな、一時的な熱病にすぎないと思われるだろうか。

 いままでは、その性向があらわな子どもを挙げて、現代日本における呪術の盛況ぶりを述べてきたが、実は「呪術」とは明白に意識されずに行なわれてきた呪術が多々ある。「呪術」と呼ばれぬ呪術が日本には数多くあるのだ。そしてこちらの方こそが実のところ本丸である。

 日本人すべてと言ってもよいほどの人たちが呪術を信奉している。それが言い過ぎなら、積極的な信奉はせずとも、少しも怪しまずに呪術を受け入れて暮らしているのである。では、今度は大人の世界の呪術を見ていこう。なぜかはその後に考えたい。

 最もポピュラーなのは、「4号室」と「13日の金曜日」だろうか。「4」は「四=死」でわかりやすいが、一方の「13」はご存じのとおり、キリスト教の俗信が起源だ。ここにかえって、日本の呪術の性格がよく表れていると言える。

 若者にとっての星占いと同じようなものに、中国起源の陰陽五行説(日本では陰陽道)がある。干支(えと)や六曜はよくご承知だろう。六曜とは大安とか仏滅とかいうものだ。結婚式を仏滅にする人は増えてきたが、結納を仏滅にしたり葬式を友引きにしたりする人はまずいない。

 年末年始に開運暦を買う人は多いし、土用の丑(うし)の日にはうなぎを食べ、家相で風水を気にする人も多い。易占いや手相見は街にあふれているし、四柱推命で運命を測る人もいる。神社のくじも呪術だ。凶と出たくじは神樹に結び付けるが、ここには呪術的意図が読み取れる。それに地鎮祭や棟上げも呪術だろう。

 もっと日常的には、季節の風物詩である。テレビでは定期的に日本全国の祭りや年中行事などを取り上げる「季節・風物もの」という企画があるが、これらは季節の正常な運行を助ける呪術である。あるいは、抽象的な時間を人間文化的に意味付けようとする呪術である。俳句の歳時記とは、これの体系化、集成にほかならない。

 他ですでに述べてきたことだが、一年の死と再生の正月、人生を段階づける七五三などもそうだ。また、死者を送迎する盆というものもある。伝統文化、民俗文化とは、そういう意味では、すべて呪術だ。起源や素材は、近世・中世・古代、西欧・中国・インドなど様々だが、現代日本にはすべてが流れ込んでいる。

 それから、幽霊は迷信(呪術)だとする大人は多いが、葬式でのお経はなかなか欠かせないだろう。しかしこれも他で述べたように最たる呪文である。また、死や罪に際しての連座のケガレも呪術だ。このケガレは感染するのだ。呪術とはどうやらそういうものらしい。見えない力(モノ)が飛んでゆき、関係者や接触者に確実に付着したり彼らを襲ったりするのだ。

 以上のように現代日本人は、老若男女を問わず、呪術世界に棲んでいる。このことは社会の後進性を示すものでも何でもない。日本人の聖俗秩序観=世界観=人生観を示すものにすぎない(あるいは、同様なことが世界中に満ち満ちていることを思えば、人間の世界とは呪術の世界とも言えようか)。

 近代以降、世界は抽象合理的なものとなり、日本人は明治以降、そんな流儀も見習ってしまった。しかし釈迦が説いたような「ニヒリズム」を今さら生きることは難しい(注)。人間は抽象合理だけの世界には棲めないのだ。物理学に「果たして空間は曲がっているか」というテーマがあるが、人間は均質な時空間を曲げて意味を見い出している。聖と俗とはそういうことだ。

 何もなかった「古代」を、そのときの人間の思惟や感情を想像してみたい。自然に制約されるしかなかった古代。喜びも悲しみも他律的であった。人工の明かりのない夜空には、月と星が毎日少しずつ違う相貌を見せていた。すべてが不可思議で、かつ文字どおり神秘的に自律的だった。

 人間とは自然の内にある生物だ。現代においても、この宇宙的、自然的、生物的リズムの内に生きざるを得ない。どんなに現代的生活を過ごそうとも、身体はもう一つの世界を知っているし、実はそこにしか生きることはできない。

 私たちは、日々時計に従う、また無機的な月日が並ぶカレンダーで日常を過ごしているが、そんな「ケ」の時空間だけでは満足できないのだ。そうして「ハレ」の瞬間を求めるのだ。

 月の満ち欠けがひと月であった時代、星が季節の運行を告げていた時代が長く続いた。私たちはこれを頭の記憶=経験的には受け継げてはいないが、身体の「記憶」(というより現在的現実)としては覚えている(生きている)。若者たちの呪術志向は、彼らが大人より自然的身体的であることを告げるものであろう。

 だから私は、夜、墓地に行っても幽霊が出ないような精神風土が必ずしもよいものとは思わない。幽霊が本当に出なくなったら、そのときは当然ながら墓地なんぞというものも不要だろう。

 蛇足だが、「呪術」というものの相対化は進めねばならないだろう。伝統とはいつか失われねばならないものだ。すべては過程の中にある。伝統と言えども不易ではない。しかしながら「呪術」はなくならないであろう。

 最後に、警告になるが「呪術」に操られないことだ。操ろうとする「悪人」が必ずいる。地獄には往ってもよいが、突き落とされてゆくものではなく、自ら飛び込んでゆくものでなければならない。


(注)
 ここで言う「ニヒリズム」とは呪術を排する生き方(一つの完結した合理主義)である。「釈迦が説いたような」と表現したのは、「ニヒリズム」という言葉にニーチェの影が伴うからだ。ニーチェのそれは「虚無主義」とされるが、釈迦の説いたものに「虚無」はない。

 

日本における「ケガレ」という差別

▼ケガレという差別

 日本は差別社会である。いきなり大変なことを言い出したが、そう言わざるを得ない。そろそろ年賀状を書く季節であるが、もし身内に死者が出たら、私たちは「喪中欠礼」を出し、ともに年賀を祝うことを慎む。これは何か。死を死者個人に留めず、身内全体に及ぶものと信じているからだ。いわゆる「死のケガレ」があると、認めているわけだ。

 ケガレはまだある。罪のケガレだ。犯罪人(容疑者の段階でも)の身内は差別される、だろう。いま世間で最も騒がれている例で言えば、和歌山市の砒素保険金殺人事件の容疑者の身内は「犯人」同様の非難の目を浴びているに違いない。

 わかって頂けるだろうか、日本の「差別」とは、当人だけではなくある一定の人たちをも、自分たちが属する秩序世界からはずすことを指し示す言葉なのである。これは平安時代以降のケガレと同じ構造である。かつて、ケガレは共同体(=世間)から遠く共同体外へ流すことで祓った。つまり、ケガレ(ケガレた人たち)を排除(=差別)していたのだ。

 もともとケガレは神意であり天罰だった。不慮の死は尋常ならざる神意であり、罪は天意に背くことであった。そういう呪術性をいまなお保持しているのが日本社会である。

▼ケガレと個人

 では、なぜケガレつまり日本の差別は、当人以上に拡がるのだろう。それは日本には「人格=個人」がないからだ。少なくとも、完全独立体としての個人はない。

 もし、なんぴとにも人格があるのであれば、たとえ死刑を言い渡された重犯罪人にでも、「さん」づけは当然必須だろう。もし完全独立体としての個人があるのであれば、成人した子どもの罪をなぜ親が詫びねばならないのだろう。さらに、学校の誰かが事件が起こせば、なぜ野球部が試合出場を辞退しなければならないのだろう。こんな社会に「自己」責任なんてあったものじゃない。

 差別と言えば、部落差別、朝鮮人差別、人種差別等と思い浮かぶが、それ以前に日本には差別が満ち満ちている。特定の差別だけを「差別問題」としている限りは、差別はなくならないだろう。同様に、個人の存在を前提とした「差別をなくそう」というような一般的な呼びかけでは、絶対に差別はなくならない。私たち日本人のあり様を深く考察した上で、その解決の方途を探らねば有効な対処とはならないだろう。

▼日本の個人と世間

 改めて、日本における個人とは何か。それは自分の「世間」の中にのみ、存在が許されるものである。世間とは所属である。家であり一族であり、学校であり会社であり、都道府県であり国である。もちろん、いま挙げた以外にも多様な所属(世間、共同体)がそれぞれあるだろう。

 自分の世間は多様であり、そのつど伸び縮みする。ある事柄に際して、相対的に自分が属している方が自分の世間である。乗り込んだ電車の中で知り合いと出会えば、それまでの車両というゆるやかな世間が別の世間に一変する。甲子園の高校野球では自県の高校が出場すれば自県が世間だし、オリンピックで日本人が登場すれば、自分の世間は日本だ。

 同じ世間に属する人たちを身内と言う。身内同士ではそれぞれ個人を認め合う。いわゆるホンネが話せる場が出現する。しかし一歩自分の世間を出ると、個人はない。だから、そこでは自分の世間を意識したタテマエしか話せなくなる。世間を越える「社会」での発言は、実は自分の世間に向けたものである(官僚や企業の不祥事についてのあり様をご想起願いたい)。

 この世間の存在は、欧米(=近代)標準から言えば、日本社会の「後進」性を示すものだが、「世間」は日本に限ったことではない。中国や韓国での身内優遇はご存知だろう。「世間」を持つ国の数の多さから言えば、むしろこちらの方こそが世界標準だとさえ言える。

 急ぎつけ加えるが、開き直ろうと言っているのではない。日本人は欧米とは違う社会に棲んでいることを認めること、そしてそこからしか私たちなりの問題解決はできない、ということだ。欧米と同じ地盤に乗っかっているつもりからの「差別をなくそう」では少しも問題は解決しない。

▼日本人の「罪」観

 もとより、日本社会のダメさ加減を言いたいわけではない。西欧生まれの「社会」「個人」「差別」というような言葉を使うとき忍び込んでいる、文化的バックボーンへの無視を指摘しているのだ。言うまでもなく、ケガレは日本人の聖俗秩序観=世界観=人間観と深い関わりがある。

 日本人は、個人では罪を犯さないと考えているのだ。個人の非中心性、さらに人間の非中心性がその背景にある。自然の流れの中に人間があり、個人がある。個人はその大きな流れに流されてゆくものという考えがある。相対的な存在としての人間観がある。世界全体としての自然との関わりの中で、人と人との関わりの中で(文字どおり、人と人の「間」として)個人がようやくあるという考え方だ。

 罪人が属する世間という共同体が罪を犯すのだ。とりわけ、少年たちの凶悪事件が起こる度に、新聞やテレビは学校や教育、家庭や地域社会、ひいては日本社会全体の罪状をなんとか暴き出そうと血眼になる。これは個人の罪をケガレとして拡散しようという「伝統」以外の何者でもない。また、「個人では罪を犯さない」という考えの明白な証左である。罪人を取り巻く世間という大きな流れがその個人にやむなく罪を犯させたという考え方である。

▼あいまいな解決への途

 ケガレ脱却への結論ともならぬが、ひとまずなんとか結びたい。ケガレの集合性とは個人の集合性にほかならない。集合的な個人を単純に解体分離することは日本人にとって非常な困難を伴うばかりでなく、精神文化の甚大な破壊につながるものと思われる。ではどうするか。残念ながら、妙案はまだ浮かばない。

 日本はかつて西欧近代文明を受容し、その果実をみごとに東洋の地に咲かせた。近代化には一種の聖俗分離、つまり合理主義が伴わねば成功しない。しかしながら、いまも述べてきたように日本は一面では今だ呪術の国である。であるなら同様に、罪の聖俗分離=合理化を辛抱強く完遂するしかないのではなかろうか。

 ケガレとは相互排除の構造である。自分の世間から誰かを排除し、また自分が排除される。排除しないことで排除されることを恐れて、誰かを排除するのである。だから、この循環をしだいしだいにあいまいにしてしまうことだ。

 世間の中だけにしかない個人(所属する個人)と、「その世間に所属しない個人=もう一つの私」という二つのものを持つことを、相互に許し合うこと。後者は「もう一つの公=社会」を作ることと同義である。しだいに二重化を大きくして、排除循環を無意味なものにしてゆくこと。あいまいにし、いつしか別の物にしてしまうことは、私たち日本人の常套手段ではないか。こういう回りくどいことを言うのも、少なくとも私には、いまの個人がそのまま欧米流の個人となってゆくとはとても想像がつかないからだ。


(補足としての「公私」小論)

 欧米の公(パブリック=社会)と日本の「公」(おおやけ)とは似て非なるものである(当然、プライベートと「私」わたくしも同様)。日本の「公」とは相対的な大「世間」である。自分が第一に所属する小世間(=私)とは相対的に区別される大世間にすぎない。欧米の公、すなわち均質的で絶対的「社会」ではない。

 それ故、日本の「滅私奉公」という言葉も、第一に所属している小世間(たとえば家族)ではなく、第二次的な大世間(たとえば会社や国家)に所属することを優先するという意味に解釈しなければならない。決して「私=個人」が「公=社会」に奉仕することではない。


[主な典拠文献]

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

  • 作者:阿部 謹也
  • 発売日: 1995/07/20
  • メディア: 新書
 

 

「清め塩」と人間文化の成立

 先日の朝日新聞(注)にもこれに関する記事が掲載されていたが、そこここでいま葬儀会葬者への清め塩の配付が問題になっている。曰く、「死は穢れたものでこれを清めなければならないとするのは、ただの迷信や習慣であり、このような世間体を気にする行動が小さな偏見や差別につながる」。

 これ自体については、それでもよいのだが、「清め塩はただの迷信や習慣だ」という何気ない言葉の中に潜んでいる大きなテーマについては捨て置くわけにはいかない。そのテーマとは、人間とは文化的あるいは精神的・宗教的存在であるということだ。当たり前ではないかと、反応が返ってきそうだが、これが「清め塩」に象徴されることと無関係ではないのだ。


 順を追って考えよう。「死は穢れたもの」と言う場合の「穢れ」とは何か。ふつう、人の死に出会うと、私たちは死者との絶対的な断絶を感じないだろうか。どんなに名を呼びかけてもどんなに激しく肩を揺さぶっても、一度死んでしまった人はもはや応えない。生きている私たちの手には届かない処へと旅立ってしまったのだ、と痛感せざるを得ない。

 死者のために、この世からあの世への門が開いたのだ。すなわち、葬儀会葬者はこの世ならぬ処へと通じている恐ろしい門の前に立たされたのである。ここには日常ならざる次元が確かに開けている。この恐ろしさこそ、死の「穢れ」ではないか。

 改めて問うが、果たして死は歓迎すべきものなのか。僧でも何でもないふつうの生きている人間から見て、生と死は同じ価値をもつものだろうか。死の間際にある者に対して、肉親は生と死のどちらを望むだろうか。生こそ歓迎すべきことではないのか。だからこそ、延命治療を施したり死を嘆き悲しんだりするのではないか。

 そういう意味で死は負価値である。少なくとも、生から死へと越えるべき段階では負の価値であろう。急いでつけ加えておくが、死者が逝ってしまったあとは、あの世(死後の世界)そのものは決して負価値ではないだろう。あの世においては、死者は不幸ではないだろうし、決して「穢れ」てなぞいない。

 死者が通り抜けたあとの、この世からあの世への門を閉じること。この世とあの世を、つまり生者の世界(こちらの日常側)と死者の世界(日常ならざる他界)を区切ること、聖と俗なる次元を区別(聖別)することこそが、「清め塩」に象徴される行為である。その手段は必ずしも「清め塩」でなくてよいが。


 このような象徴思考を「迷信・習慣」と言い捨てる人は、おそらく人間の何たるかに思い致したことがない幸せなお方なのだろう。人間は無色透明、無味乾燥な時空間に棲んでいるわけではない。人間は、好むと好まざると、複雑多様に色づけ味つけられた、文化的あるいは精神的・宗教的な時空間に棲んでいる。私たちは世界を「フォーマット」して生きている、あるいは「フォーマット」された世界を生きていると言える。

 フォーマットとはコンピュータ用語で、初期化と訳される。フロッピー・ディスクなどを初めて使用するとき、行なう操作である。フォーマットは電子上の番地付け、データ認識上の標識を取りつける作業である。これをしないと、コンピュータはデータをフロッピーのどこに置けばよいのか認識できないのだ。

 同様に、人間は文化によってフォーマットされていると言える。もし文化的なフォーマットがなければ、人間はこの世界を人間的に意味あるものとは認識できないはずだ。意識的なフォーマット(たとえば法)をする以前に、その基礎に無意識的なフォーマット(たとえばタブー)があり、これが象徴思考を規定している。

 人間は単なる生物、動物の一種であることを間違いなく免れ得ないが、そういう「水平的」存在としてあるだけでなく、人間文化の中で生きる「垂直的」存在である。死もまた、生物個体の死という水平的現象であるとともに、極めて人間文化的な垂直的な出来事である。だから、垂直的な意味でなされる象徴思考を「迷信・習慣」と言う人は人ならぬ怪物と言っても差し支えないだろう。もしそれが「合理主義」というのなら、合理主義とは人間を水平的な単なる生物と看做す思想である。そんな合理主義者には、たとえば近親相姦のタブーも無用の「迷信・習慣」だろう。


 人間の文化的なフォーマットは、無機的にただ延び拡がる時空間を聖別し、この世界に人間的な意味を与え直していると言える。

 たとえば、一年の経過は水平的に見れば地球の一公転にすぎないが、人間はこれを「正月」や「新年」として祝う。世界が時間的に再生していると認識し、「祝い」という呪的行為を行なうのだ。玄関につけるしめ縄などは空間的な聖別と見ることができる。

 また、人の成長は水平的には生物的な発達過程にすぎないだろう。しかし、たとえば日本ではお宮参り、七五三、成人式、葬式という通過儀礼を行なう。これらはすべて、人間存在を垂直的に意味あるものに聖別する象徴思考である。

 人間の垂直性をフォーマットに譬えているが、興味深いことに、フォーマットはコンピュータの基本言語(OS)ごとに異なる。それぞれのOSに合ったフォーマットがあるのだ。これは人間文化の多様性と固有性を言い当てているようにさえ思える。

 たとえば言語がそうだが、その人にとって母国語はただ一つだ(たとえバイリンガルの人であっても)。一人一人の人間は、生物的存在としてはどんな言語でも話し得る可能性をもった状態(フォーマットされていない状態)から、たった一つの母国語しか生得的には話せない文化的存在(ある一つのフォーマットがなされた存在)として誕生する。その人の精神も本来在り得たかも知れない普遍的な可能性から、たった一つの特殊文化の中に現実存在として成立する。文化の固有性、特殊性とはこのことを言うのだろう。

(つけ加えておくが、言うまでもなく文化は不変ではないし、私たちは普遍的な文化をもち得ないと言いたいわけでもない。文化フォーマットの原点を述べているまでだ。)


 迷信に話を戻すが、迷信だとして捨て去るべき習慣も私たちの周りに確かにあるだろう。しかしながら、一方で私たちのアイデンティティに深く関わる象徴的な意味をもった行為もある。その場合、その象徴思考をいかに現代の生活と文化に適合させるかには十分慎重でなければならない。なぜなら、私たちの生活と文化は、水平的な思考でこと足れりとする先ほどの小さな「合理主義」ではなく、人間の垂直性を十分に包み込んだ大きな合理主義によって支えられているからだ。


(注)朝日新聞 1998年10月6日 大阪本社版 夕刊記事
   「清め塩 廃止の動き 死=「けがれ」風潮なくそう」(学芸部・池田洋一郎記者)

日本人の魂の極楽

▼序

 「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。安眠をむさぼっていた日本思想は、仏教思想によってたたき起こされて以来、長らく自信を失っていた。しかしその後、日本思想は当の仏教思想を摂取し続けることによって、ついに日本人の魂の極楽を見つけたのである。
(本小論では触れないが、この続きを言えば、今度はキリスト教=西欧近代思想が日本人の魂の極楽に闖入し、日本思想は現在またも自信喪失の病床にある。)

 この小論は、日本人の魂についての覚え書きである。


▼太古、魂は幸せであった

 太古は人間の魂にとって平安な時代であったようだ。エリアーデが語る「死と再生」の永遠回帰を倦まず繰り返していたことだろう。この時代には個人はなかった。死者はただあの世に逝くだけだ。横死した場合も、カミがあの世に連れていってくれた。

 あの世に天国も地獄もない。死ねば行く所であり、生まれるまでいる所があの世である。つまり身体がない魂の国なのだ。それに対して、この世では魂は身体の中にある。

 魂に前世の記憶はない。魂は、年をとるようなものではないのだ。このころ、魂とは生気エネルギーだ。生きるとは息をすることであり、空気を呼吸することである。赤子は息をして生まれる。すなわち、気こそが生命なのである。これが弱まることが、気涸れ(けがれ)あるいは気離れであり、後の穢れや汚れではない。

 カミは様々いたが、蛇について触れておく。蛇は「死と再生」のカミだ。この世とあの世の往還が死と再生だが、この擬制が祭りである。死と再生は、一年の中にも一月の中にも一日の中にもあった。人々はこれら小サイクルの中の祭りで、死と再生を繰り返していた。気涸れとはそういう「死」であった。蛇が脱皮して成長していくように、人や世界も、神聖なる時空間を脱皮していくのだ。再生(新生)するために死なねばならない。

 そういう気涸れには、後のような祓ったり清めたりすることでは意味をなさない。死に場所を与えること、あるいは死にゆく魂を救うことでなければならない。死に場所とは、子宮のような冥い穴ぐらである。後のこもる所である。では、どうやって死にゆく魂を救うのか。魂は生気であったから、これを活気づければよい。すなわち、魂振りである。鈴を振るように魂を振ること(これが物部の仕事であった)。

 モノと言えば、大物主を思い出すが、そう言えばこの神は蛇であった。魂はカミにもなりモノにもなった。カミとモノに共通するのは霊威の強さだ。カミは人々に信認された霊威であり、モノは信認されなかった霊威である。

 魂はしばしば浮遊した。夢を見ている間、魂は浮遊している。夢では、あの世との交渉も自由だ。カミやモノとも出会う。夢から覚める時、魂が浮遊したままでいると、死んでしまう。死んだ魂は鳥となってあの世へ飛んでいった。

 個人がない時代、すなわち内面のないこの時代では、吉凶や善悪はカミがなせる業であった。だから、死もカミの定めたものであった。カミが定めた罪人は、カミの加護を失った者として、カミの世界(共同体の範囲、村コスモス)から遠ざけられた。つまり、異界に流されたわけだ。これは穢れとモノの起源である。

 しかしカミの霊威は強く、まだたたりのない時代であった。人は死ねばあの世に行くことができた。


▼古代国家の生成と仏教の流入

 仏教は、内面の罪と地獄をもたらした。この世に個人を目覚めさせ、極楽と地獄という二つのあの世をもたらした。平安な時代は終わったのだ。

 神帝は人帝となり、国家が立ち上がる。刑罰は、神の名のもと人が下すものとなった。紀記神話にはすでに「古代」が忍び込んでいる。

 気涸れは穢れとなった。集合的な魂は個別化されつつあった。そこここに漂っていた魂=生エネルギー=生命が、個人的な魂=心になろうとしていた。

 穢れは祓わねばならない。祓いとは、穢れをぬぐい浄めることだ。古来、穢れは水に流された。これを水にすすぐことが、禊ぎである。ところでこの水はどこに流れてゆくのだろうか。異界である。他界であるあの世ではない。異界とは共同体=国コスモスの域外のことである。タマやカミではないモノの棲む世界を言う。長らく、この世=世界は(実はあの世も)限られた自分たちだけの世界=コスモスであったのだ。

 仏教の如来や菩薩は新しい外来のカミとして、新しい人たちに迎えられた。どのようなカミであり、また新しい人たちとはどのような人たちか。新しい人たちとは、日本の神には祓えない罪、神意ではない罪に穢れた、つまり内面に目覚めた個人の罪を自覚する人たちである。この罪に穢れた魂はあの世には行けない。死後に地獄が待ち受けているのだ。この罪を祓うカミが如来や菩薩であった。

 皇族や貴族たちがすでに内面の罪に目覚めていた。彼らには死後に平安なあの世に行けないかも知れないという不安があったのだ。日本の神は霊威を失いつつあった。

 しかし、大部分の日本人は個人の罪なぞ知らなかった。日々を神意を伺うことで過ごし、累積した穢れは定期的に祓い流していた。祭りが自分たちのコスモスの再生儀式であることにも変わりはなかった。また、稲作が盛んになり、蛇のカミは雨をもたらす恵みの神となっていた。


▼祓えない穢れ、たたる死者たち

 仏教思想は徐々に全国に浸透していった。皇族や貴族たちに続き、個人に目覚めたのは全国の豪族たちである。彼らも外来のカミを熱烈に求めた。彼らには、日本の神自身が気涸れてきているように思えた。律令国家以降の社会進展の担い手である彼らには、それほどまでに日本の神の霊威は衰えて見えた。

 そこで神の境内に神宮寺が誕生する。主として密教系のパワーあるカミが祭られた。密教のカミは呪術のカミだ。個人の頼みごとを聴くカミだ。豪族たちは、現実変革を求めていたのだ。律令国家の「紀記神話」体制による社会や土地制度は崩れつつあった。空海が請来した密教はこの流れを国家的にも完成させた。天皇から庶民まで、日本全国が密教化することになる。

 このような社会変化は、それまで疑いもせず日本の神にすがってきた人々にも、逃れがたい葛藤をもたらすこととなった。神が力を弱めたため、あの世に行けない魂が出現し始めたのだ。そうして、モノ化した魂がこの世にさまよい出す。

 また、穢れが、神の霊力では簡単に流せなくなった。社会の進展は人々の生活コスモスを一気に広げ、神がこれまでカバーしてきたエリアをはるかに越えてしまった。地理的にも異界ははるか遠のいてしまっていた。死ぬこともあの世に行くことにすぎなかったのに、選ばれた者しか極楽というあの世へは行けないということになった。さらに、死は穢れたものとなった。穢れが流せない以上、一時遠ざけるほかない。これが物忌みである。

 横死した魂、特に怨みを含んた死者はあの世に行けず、モノと化し、堂々とこの世に現れ、たたるようになる。このころ、蛇のカミは忿怒する雷となる。

 たたる死者=魂を慰撫する手段はもちろん密教である。魂を慰撫することを鎮めるという。鎮魂仏教による魂鎮めである。魂を活気づけるためになされたのが魂振りであったが、いまや魂は鎮めるものとなった。

 たたる魂の方も密教的な背景で出現する。菅原道真大日如来の化身である帝釈天の弟子、観自在天神となっている。ご存知の通り、この魂鎮めは見事成功し(現世的な贈位によってだが)、後にたたるモノから天神というカミに転身するのだが。


▼成仏への道

 もはや日本人の魂は、仏教思想抜きには立ち行かなくなった。こうして浄土思想が本格的な威力を発揮し始める。罪人である個人は地獄へ堕ちる。しかし阿弥陀仏にすがれば、極楽往生できるかも知れない。密教は現世的生活呪術であったが、浄土教は来世的生活呪術である。

 始め極楽往生の願いは寺や僧をかかえることができる裕福な支配層にしか許されないものであったが、やがて法然が専修念仏を説く。すなわち、誰でもができるやり方(呪術)で極楽往生の願いが叶うことになったのだ。ようやく日本人の魂はあの世への方途を再び見つける。

 いつしか、極楽に行けることを「成仏」すると言うようになった。これは日本的な言い方ではないか。仏に成ること=悟りを開くことと、極楽に行くこととは本来違うはずだ。極楽に行くことだけで仏になれる。あたかも、あの世に行くだけでカミになれるように。「極楽」とはあの世のことであり、「仏」とはホトケというカミではないか。

 葬式とは、日本人の魂をあの世に送る鎮魂呪術儀式にほかならない。たたることなく、つまりモノとなってこの世をさまよい歩くことなく、あの世に再生するための。

 ついには、死者をただちに「ホトケ」と呼ぶようになる。死ぬことを「成仏」と言い、死んだだけでホトケ=カミとなれるようになる。もはや鎮魂呪術すら不要なのだ。ここに、すべての日本人の魂はあの世という極楽へ行けることとなった。


▼結び

 しかし、現在でも死者の祟りは信じられている。横死者はもちろんのこと、実験解剖されたカエル、飼い犬や猫、使い古された針までも、供養を受ける。無事にあの世に行けるように葬式呪術が施され、成仏する(カミとして再生する)よう弔われるのである。

 因みに、現代の幽霊も弔いによって成仏するわけだが、これを最初にパターンした劇が能である。能では、主人公があの世に行けずさまよう魂(モノ)と出会い、供養を施して魂が成仏することで終わる。このときまでに、日本人が現在に至る鎮魂形式を完成させたことを示す証左である。

(了)



(補足としての自注)

  1. 大陸からの流入思想を「仏教」に一括している。儒教道教の独自の影響についてはここでは無視しているが、日本に流れ込んだ仏教にはすでに儒教道教の影響が含まれ、古神道と相俟って日本仏教を育んだものと考える。
  2. 仏教での他界を「極楽と地獄」に限定している。六道輪廻、また輪廻転生そのものについては触れていない。日本には古来、この世とあの世の往還というごくフラットな生まれ変わり思想があり、また人間以外の生物も同様な往還を繰り返していた、と考える。

[主な典拠文献]

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

  • 作者:阿満 利麿
  • 発売日: 1996/10/01
  • メディア: 新書
 

 

神仏習合 (岩波新書)

神仏習合 (岩波新書)

  • 作者:義江 彰夫
  • 発売日: 1996/07/22
  • メディア: 新書
 
蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)

  • 作者:吉野 裕子
  • 発売日: 1999/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

古代研究I 民俗学篇1 (角川ソフィア文庫)
 
日本人の「あの世」観 (中公文庫)

日本人の「あの世」観 (中公文庫)

  • 作者:梅原 猛
  • 発売日: 1993/02/01
  • メディア: 文庫
 

 

大魔神・ウルトラマン・仮面ライダーにおける「カミ」の三変態

 私に言わせれば、ウルトラマン大魔神仮面ライダーも「カミ」である。カミとは日本人が特別な存在とみなすものを指すが、カミにもいろいろなものがある。特定の山、特定の川、特定の石、特定の木、特定の気象現象(雷など)、特定の天体(北斗七星など)、特定の作物(稲など)、特定の動物(蛇など)、特定の人物(聖徳太子菅原道真など)、神(天照大神など)、仏(阿弥陀仏など)、などなど。
 さらに、特定のものにではなくすべてのものにカミが宿ると考えると、アニミズムということになる。(以下「カミ」は「神」と記述する)

 さて、大魔神ウルトラマン仮面ライダーには、日本人の神観タイプの三階梯が表現されているように思われる。順に説明していこう。

 まず、大魔神。神は何もないときは和霊(にぎたま)の姿である。はにわの顔で表現されている。そして怒りとともに神は荒魂(あらたま)に変身して動き出す。悪党に近づいていく足音がものすごい。一歩一歩、地響きを轟かせながら歩く。これは雷(神鳴り)である。
(脱線するが、こう書くとどうしても横浜の「大魔神」を思い出してしまう。余計な話で恐縮だが、佐々木投手が最初に「大魔神」と呼ばれるようになったわけは、その頼もしさからではなく、彼の容貌からであったそうだ。閑話休題。)
 さて、悪者たちの退治が終わったあとに注目だ。神は荒魂から和霊にもどり、光の玉(魂)となって大空へ飛び去っていく。はにわにもどった神の抜け殻はただの土くれとなり崩れ落ちる。
 つまり大魔神という神は、崩れたはにわの武人像ではなく、飛び去った魂なのである。神は武人像を依り代として舞い下り、荒魂状態で何かをなし、去っていくわけだ。
 この大魔神段階では、神と人とは明らかに別ものである。だれかの人の魂が大魔神という神になった、という感じはない。

 次にウルトラマン。これは「神人」の段階である。人(ハヤタ)の身体に神(ウルトラマン)の生命(魂)が入っている。神が人になったと考えれば、キリスト状態だ。ストーリーにしたがえばこうであるが、少し違った解釈をしてみる。
 ウルトラマン、つまり神の魂は、平時は地球外にいると考える。すると、ウルトラマンになる地球人ハヤタは神の依り代ということになる。特定の神に対する特定の依り代だ。降臨する神に指し示す目じるし(幣束としてのフラッシュビーム)も定まっている。
 神を呼ぶ目じるしが高く差し上げられたとき、ウルトラマンの魂は瞬時に宇宙の彼方から降臨するのだ。神は呼ばれるまで地球にはいない。来訪神なのである。ウルトラマンが来訪神であることは、制限時間があり、最後は宇宙に飛び去ることからもわかる。神は帰らねばならないのだ。
 ウルトラマン段階では、神と人とは微妙な関係である。神の依り代になった人は少しの間、神になることができる。人はある条件下、神になることができる。

 さて、仮面ライダーだ。仮面ライダーも神とみることができる。仮面ライダーはご存知の通り、改造人間だ。人間と、何か超人的なもの(これが神の正体)との合体である。それでもモード転換は欠かせない。非常時なると、平常時の人から、身体的操作を行なって、神に「変身」する。文字通り、神が身体に仕組まれているわけだ。
 大魔神ウルトラマンでの段階のように、神は遠くからやって来るのではない。神は人の内にすでにいる。神人一如、即身成仏だ。神は帰らなくてもよいから、制限時間もなしということになる。
 思うに、この仮面ライダー段階が日本の神人関係を低くした。「神になること」を安易なものにした。超能力ブームやオウム真理教はここにつながっていると思われるのである。


[主な典拠文献]

古代研究I 民俗学篇1 (角川ソフィア文庫)
 

 

宗教以前の宗教--日本の祭りのために

 宗教(religion)とは、後世の概念である。人々がそれまで意識せず連綿と過ごして来た「宗教」的な生活を脱したあと、ようやく生み出された概念だ。それまでの無意識の「宗教」的生活とは、エリアーデの言う永遠回帰する霊的な生活のことである。

 その宗教以前の「宗教」を、後世の概念と区別するため、「古代聖俗観」と名づけておこう。「古代聖俗観」は後世の宗教のように選び取るものではない。それは絶対的な先入観としての世界認識であり、生きることと同義である。日々を、一生を支えている無意識の「価値」観である。それは生活スタイルや生活価値と不可分に結びついていた。

 さて、日本人においては、夙の昔のこの「古代聖俗観」の残り火が現代でも失われていないらしい。つまり、古代以来の永遠回帰する霊的な生活が、たとえそれが残り火としてであってもなお続いていると言うことだ。それが証拠に、現代日本人が信仰する宗教を問われたら、何と答えるのだろう。大半は、無宗教と。あえて選べと言われれば、仏教ないし神道と言うだろう。しかし、真実はそうではないだろう。実はこの人たちには、いまだに「古代聖俗観」が生きている。だからこそ、一生あるいは一年の行事に際して、様々な宗教様式を選んで心底の矛盾はないのである。初詣や結婚式は神道、葬式や先祖供養は仏教、といったぐあいに。

 それ故、このような日本人には、宗教宗派の分類は無意味だ。心の奥底に「古代聖俗観」が流れてさえいれば、わが「信仰」なのだ。それは名づけられもしない無意識で絶対的な先入観。「日本」という枠組みがある限り、おそらくこの「古代聖俗観」は存続するのだろう。ふつう伝統とか民俗とか呼ばれるものが。(それは信仰ですらない。なぜなら、無意識であるからだ。)

 だから日本人の宗教は神道ではない。もちろん仏教でもない。では神仏習合か。いや、これも不正確な表現だ。それらはすべて表層的な姿や形にすぎず、「信仰」の中身ではない(だからこそ神仏習合が可能だったのだが)。日本人は家で神棚や仏壇に手を合わせ、儒教道教の約束事などを気にしながら、あまたの寺社や教会に詣でる。しかしいつも心はそれらの宗教には向かっていない。違うものを「信仰」している。

 神道はこの「古代聖俗観」を基に成り立っているが、「古代聖俗観」そのものではない。また、「古代聖俗観」は常に同一の「信仰」でもない。時代精神にともにその内容要素は盛衰し、かつ変化してきた。さらに、現代では「古代聖俗観」の残り方に個人差が大きくある。
(仏教について一言。多くの日本人にとって、仏教もそんな「古代聖俗観」の一要素にすぎない。しかし、字義どおりの宗教として仏教を受け入れた日本人もいる。その人たちは日本人の「古代聖俗観」を呪術として峻拒してきた。因みに、キリスト教についても同様で二種の受け入れ方がある。)

 試みに「古代聖俗観」を求めて、原-日本へ遡る。だが、水源は見つからない…。
日本人の「古代聖俗観」を「神道」と名づけ、それを探求したのは本居宣長だ。折口信夫の「古代」も同じものだったのかも知れない。現代では、彼らが探求して見つけたものの多くは古代中国起源のものだったことがわかっている。では、日本人の「古代聖俗観」は中国人ゆずりのものなのか。形の多くはそうだろうし、心の一部も重なるだろう。それどころか、太古以来「中国人」や「朝鮮人」自身が数多く渡来し「日本」という土地にそのまま移り住んできた。が、それでも日本人は中国人や朝鮮人ではないだろう。

 時間は風景をすっかり変えてしまう。現代から少しずつ時代を遡ってようやく古代にたどり着くと、風景が変わってしまっている。折り紙のだまし船のように、いつのまにか別の場所に来てしまうのだ。「図と地」が変化して距離や方向感が惑わされてしまい、そこがどこだかわからなくなってしまう。民族、宗教、国家、すべての概念配置がいまとは違う世界だからだ。「日本」が構造(枠組み)として見えない。

 ともあれ「日本」人は日本人となった。底が見えない井戸に測鉛を垂らすように、現代から古代へ日本人の精神文化を考えると、3つの層があるように思える。深層としての「古代聖俗観」文化、中間層としての中国大陸文化、表層としての西欧近代文化だ。日本人は精神の深層においては未だ「古代聖俗観」(の残り火)を保持しているのだ(これは聖俗の分離が完了していないことを意味する。日本人には多分に呪術的な世界観が未だ生きている)。それを現代の概念である宗教で分類したり理解したりすることはできない。古代の「日本」を現代の私たちが理解できないように。

 ところで、日本人の「古代聖俗観」がもっともよく表現されているのは、村や町の祭りである。ここで行なわれる大小の民俗祭事は宗教ではなく、「古代聖俗観」の祭事なのだ。もちろん、それらは寺社で行なわれ、形式は神道や仏教様式であるし、宗教的には神事や仏事として挙行されていることも十分承知している。しかし、そこに集う人々はそれらの祭りの心底に「古代聖俗観」を感じ取っているのだ。そういう意味で、断じて宗教行事に参加しているわけではない。たとえば、諏訪御柱祭、大阪天神祭、浅草三社祭、京都祇園祭を「宗教」行事として感じ、参加する人がどれほどいるだろうか。宗教行事と「古代聖俗観」としての民俗祭事とは、似て非なるものなのである。

 その一方で「日本教」徒もいる。日本人なら祭りに参加すべきだというのがこれだ。民俗ならぬ、民族宗教だ(民族という概念も後世のものだ。少なくとも「古代聖俗観」誕生時代にはなかった考え方である)。これまた無理な話だ。大半の日本人は「古代聖俗観」(の残り火)をまだ保持しているとしても、すでに宗教を選び取っている人たちもいる。たとえばクリスチャンに神社の鳥居をくぐることを強いてはならないだろう。この人たちにはこれらの祭りは紛うことなく宗教行事なのだから。また、「古代聖俗観」が残り火状態となり個人差も大きくなっている今となっては「日本人なら全員参加」は理不尽な強制である。

 そういうわけで祭り(民俗祭事)はいま危機にある。宗教行事、たとえば「神道行事だ」と他宗教宗派から非難される。一方で、人手不足から参加したくない者まで駆り出される。祭りは本来、「古代聖俗観」をともにする地域共同体のものであり、主体的に参加するものである。しかし職業分化と人口流動化が進んだいま、地域共同体はほとんど消滅してしまった。この上は、祭りは地域から解放されて自由になるべきではないか。地域とは無関係に「古代聖俗観」の残り方の多い者が担えばよいのではないだろうか。

 ともあれ、祭りの存続は以上の「古代聖俗観」の残り方にかかっているように思う。祭りを宗教行事としたら信徒以外には無用のものだ。また今時、民族祭事なんて時代錯誤である。宗教行事や民族祭事と位置づければ、祭りは死滅せざるを得ないであろう。根のない木はないのだから。


[主な典拠文献] 
日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

  • 作者:阿満 利麿
  • 発売日: 1996/10/01
  • メディア: 新書