日本人の魂の極楽

▼序

 「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。安眠をむさぼっていた日本思想は、仏教思想によってたたき起こされて以来、長らく自信を失っていた。しかしその後、日本思想は当の仏教思想を摂取し続けることによって、ついに日本人の魂の極楽を見つけたのである。
(本小論では触れないが、この続きを言えば、今度はキリスト教=西欧近代思想が日本人の魂の極楽に闖入し、日本思想は現在またも自信喪失の病床にある。)

 この小論は、日本人の魂についての覚え書きである。


▼太古、魂は幸せであった

 太古は人間の魂にとって平安な時代であったようだ。エリアーデが語る「死と再生」の永遠回帰を倦まず繰り返していたことだろう。この時代には個人はなかった。死者はただあの世に逝くだけだ。横死した場合も、カミがあの世に連れていってくれた。

 あの世に天国も地獄もない。死ねば行く所であり、生まれるまでいる所があの世である。つまり身体がない魂の国なのだ。それに対して、この世では魂は身体の中にある。

 魂に前世の記憶はない。魂は、年をとるようなものではないのだ。このころ、魂とは生気エネルギーだ。生きるとは息をすることであり、空気を呼吸することである。赤子は息をして生まれる。すなわち、気こそが生命なのである。これが弱まることが、気涸れ(けがれ)あるいは気離れであり、後の穢れや汚れではない。

 カミは様々いたが、蛇について触れておく。蛇は「死と再生」のカミだ。この世とあの世の往還が死と再生だが、この擬制が祭りである。死と再生は、一年の中にも一月の中にも一日の中にもあった。人々はこれら小サイクルの中の祭りで、死と再生を繰り返していた。気涸れとはそういう「死」であった。蛇が脱皮して成長していくように、人や世界も、神聖なる時空間を脱皮していくのだ。再生(新生)するために死なねばならない。

 そういう気涸れには、後のような祓ったり清めたりすることでは意味をなさない。死に場所を与えること、あるいは死にゆく魂を救うことでなければならない。死に場所とは、子宮のような冥い穴ぐらである。後のこもる所である。では、どうやって死にゆく魂を救うのか。魂は生気であったから、これを活気づければよい。すなわち、魂振りである。鈴を振るように魂を振ること(これが物部の仕事であった)。

 モノと言えば、大物主を思い出すが、そう言えばこの神は蛇であった。魂はカミにもなりモノにもなった。カミとモノに共通するのは霊威の強さだ。カミは人々に信認された霊威であり、モノは信認されなかった霊威である。

 魂はしばしば浮遊した。夢を見ている間、魂は浮遊している。夢では、あの世との交渉も自由だ。カミやモノとも出会う。夢から覚める時、魂が浮遊したままでいると、死んでしまう。死んだ魂は鳥となってあの世へ飛んでいった。

 個人がない時代、すなわち内面のないこの時代では、吉凶や善悪はカミがなせる業であった。だから、死もカミの定めたものであった。カミが定めた罪人は、カミの加護を失った者として、カミの世界(共同体の範囲、村コスモス)から遠ざけられた。つまり、異界に流されたわけだ。これは穢れとモノの起源である。

 しかしカミの霊威は強く、まだたたりのない時代であった。人は死ねばあの世に行くことができた。


▼古代国家の生成と仏教の流入

 仏教は、内面の罪と地獄をもたらした。この世に個人を目覚めさせ、極楽と地獄という二つのあの世をもたらした。平安な時代は終わったのだ。

 神帝は人帝となり、国家が立ち上がる。刑罰は、神の名のもと人が下すものとなった。紀記神話にはすでに「古代」が忍び込んでいる。

 気涸れは穢れとなった。集合的な魂は個別化されつつあった。そこここに漂っていた魂=生エネルギー=生命が、個人的な魂=心になろうとしていた。

 穢れは祓わねばならない。祓いとは、穢れをぬぐい浄めることだ。古来、穢れは水に流された。これを水にすすぐことが、禊ぎである。ところでこの水はどこに流れてゆくのだろうか。異界である。他界であるあの世ではない。異界とは共同体=国コスモスの域外のことである。タマやカミではないモノの棲む世界を言う。長らく、この世=世界は(実はあの世も)限られた自分たちだけの世界=コスモスであったのだ。

 仏教の如来や菩薩は新しい外来のカミとして、新しい人たちに迎えられた。どのようなカミであり、また新しい人たちとはどのような人たちか。新しい人たちとは、日本の神には祓えない罪、神意ではない罪に穢れた、つまり内面に目覚めた個人の罪を自覚する人たちである。この罪に穢れた魂はあの世には行けない。死後に地獄が待ち受けているのだ。この罪を祓うカミが如来や菩薩であった。

 皇族や貴族たちがすでに内面の罪に目覚めていた。彼らには死後に平安なあの世に行けないかも知れないという不安があったのだ。日本の神は霊威を失いつつあった。

 しかし、大部分の日本人は個人の罪なぞ知らなかった。日々を神意を伺うことで過ごし、累積した穢れは定期的に祓い流していた。祭りが自分たちのコスモスの再生儀式であることにも変わりはなかった。また、稲作が盛んになり、蛇のカミは雨をもたらす恵みの神となっていた。


▼祓えない穢れ、たたる死者たち

 仏教思想は徐々に全国に浸透していった。皇族や貴族たちに続き、個人に目覚めたのは全国の豪族たちである。彼らも外来のカミを熱烈に求めた。彼らには、日本の神自身が気涸れてきているように思えた。律令国家以降の社会進展の担い手である彼らには、それほどまでに日本の神の霊威は衰えて見えた。

 そこで神の境内に神宮寺が誕生する。主として密教系のパワーあるカミが祭られた。密教のカミは呪術のカミだ。個人の頼みごとを聴くカミだ。豪族たちは、現実変革を求めていたのだ。律令国家の「紀記神話」体制による社会や土地制度は崩れつつあった。空海が請来した密教はこの流れを国家的にも完成させた。天皇から庶民まで、日本全国が密教化することになる。

 このような社会変化は、それまで疑いもせず日本の神にすがってきた人々にも、逃れがたい葛藤をもたらすこととなった。神が力を弱めたため、あの世に行けない魂が出現し始めたのだ。そうして、モノ化した魂がこの世にさまよい出す。

 また、穢れが、神の霊力では簡単に流せなくなった。社会の進展は人々の生活コスモスを一気に広げ、神がこれまでカバーしてきたエリアをはるかに越えてしまった。地理的にも異界ははるか遠のいてしまっていた。死ぬこともあの世に行くことにすぎなかったのに、選ばれた者しか極楽というあの世へは行けないということになった。さらに、死は穢れたものとなった。穢れが流せない以上、一時遠ざけるほかない。これが物忌みである。

 横死した魂、特に怨みを含んた死者はあの世に行けず、モノと化し、堂々とこの世に現れ、たたるようになる。このころ、蛇のカミは忿怒する雷となる。

 たたる死者=魂を慰撫する手段はもちろん密教である。魂を慰撫することを鎮めるという。鎮魂仏教による魂鎮めである。魂を活気づけるためになされたのが魂振りであったが、いまや魂は鎮めるものとなった。

 たたる魂の方も密教的な背景で出現する。菅原道真大日如来の化身である帝釈天の弟子、観自在天神となっている。ご存知の通り、この魂鎮めは見事成功し(現世的な贈位によってだが)、後にたたるモノから天神というカミに転身するのだが。


▼成仏への道

 もはや日本人の魂は、仏教思想抜きには立ち行かなくなった。こうして浄土思想が本格的な威力を発揮し始める。罪人である個人は地獄へ堕ちる。しかし阿弥陀仏にすがれば、極楽往生できるかも知れない。密教は現世的生活呪術であったが、浄土教は来世的生活呪術である。

 始め極楽往生の願いは寺や僧をかかえることができる裕福な支配層にしか許されないものであったが、やがて法然が専修念仏を説く。すなわち、誰でもができるやり方(呪術)で極楽往生の願いが叶うことになったのだ。ようやく日本人の魂はあの世への方途を再び見つける。

 いつしか、極楽に行けることを「成仏」すると言うようになった。これは日本的な言い方ではないか。仏に成ること=悟りを開くことと、極楽に行くこととは本来違うはずだ。極楽に行くことだけで仏になれる。あたかも、あの世に行くだけでカミになれるように。「極楽」とはあの世のことであり、「仏」とはホトケというカミではないか。

 葬式とは、日本人の魂をあの世に送る鎮魂呪術儀式にほかならない。たたることなく、つまりモノとなってこの世をさまよい歩くことなく、あの世に再生するための。

 ついには、死者をただちに「ホトケ」と呼ぶようになる。死ぬことを「成仏」と言い、死んだだけでホトケ=カミとなれるようになる。もはや鎮魂呪術すら不要なのだ。ここに、すべての日本人の魂はあの世という極楽へ行けることとなった。


▼結び

 しかし、現在でも死者の祟りは信じられている。横死者はもちろんのこと、実験解剖されたカエル、飼い犬や猫、使い古された針までも、供養を受ける。無事にあの世に行けるように葬式呪術が施され、成仏する(カミとして再生する)よう弔われるのである。

 因みに、現代の幽霊も弔いによって成仏するわけだが、これを最初にパターンした劇が能である。能では、主人公があの世に行けずさまよう魂(モノ)と出会い、供養を施して魂が成仏することで終わる。このときまでに、日本人が現在に至る鎮魂形式を完成させたことを示す証左である。

(了)



(補足としての自注)

  1. 大陸からの流入思想を「仏教」に一括している。儒教道教の独自の影響についてはここでは無視しているが、日本に流れ込んだ仏教にはすでに儒教道教の影響が含まれ、古神道と相俟って日本仏教を育んだものと考える。
  2. 仏教での他界を「極楽と地獄」に限定している。六道輪廻、また輪廻転生そのものについては触れていない。日本には古来、この世とあの世の往還というごくフラットな生まれ変わり思想があり、また人間以外の生物も同様な往還を繰り返していた、と考える。

[主な典拠文献]

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

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  • 作者:阿満 利麿
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神仏習合 (岩波新書)

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  • 作者:義江 彰夫
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蛇 (講談社学術文庫)

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  • 作者:吉野 裕子
  • 発売日: 1999/05/10
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古代研究I 民俗学篇1 (角川ソフィア文庫)
 
日本人の「あの世」観 (中公文庫)

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  • 作者:梅原 猛
  • 発売日: 1993/02/01
  • メディア: 文庫