日本における「ケガレ」という差別

▼ケガレという差別

 日本は差別社会である。いきなり大変なことを言い出したが、そう言わざるを得ない。そろそろ年賀状を書く季節であるが、もし身内に死者が出たら、私たちは「喪中欠礼」を出し、ともに年賀を祝うことを慎む。これは何か。死を死者個人に留めず、身内全体に及ぶものと信じているからだ。いわゆる「死のケガレ」があると、認めているわけだ。

 ケガレはまだある。罪のケガレだ。犯罪人(容疑者の段階でも)の身内は差別される、だろう。いま世間で最も騒がれている例で言えば、和歌山市の砒素保険金殺人事件の容疑者の身内は「犯人」同様の非難の目を浴びているに違いない。

 わかって頂けるだろうか、日本の「差別」とは、当人だけではなくある一定の人たちをも、自分たちが属する秩序世界からはずすことを指し示す言葉なのである。これは平安時代以降のケガレと同じ構造である。かつて、ケガレは共同体(=世間)から遠く共同体外へ流すことで祓った。つまり、ケガレ(ケガレた人たち)を排除(=差別)していたのだ。

 もともとケガレは神意であり天罰だった。不慮の死は尋常ならざる神意であり、罪は天意に背くことであった。そういう呪術性をいまなお保持しているのが日本社会である。

▼ケガレと個人

 では、なぜケガレつまり日本の差別は、当人以上に拡がるのだろう。それは日本には「人格=個人」がないからだ。少なくとも、完全独立体としての個人はない。

 もし、なんぴとにも人格があるのであれば、たとえ死刑を言い渡された重犯罪人にでも、「さん」づけは当然必須だろう。もし完全独立体としての個人があるのであれば、成人した子どもの罪をなぜ親が詫びねばならないのだろう。さらに、学校の誰かが事件が起こせば、なぜ野球部が試合出場を辞退しなければならないのだろう。こんな社会に「自己」責任なんてあったものじゃない。

 差別と言えば、部落差別、朝鮮人差別、人種差別等と思い浮かぶが、それ以前に日本には差別が満ち満ちている。特定の差別だけを「差別問題」としている限りは、差別はなくならないだろう。同様に、個人の存在を前提とした「差別をなくそう」というような一般的な呼びかけでは、絶対に差別はなくならない。私たち日本人のあり様を深く考察した上で、その解決の方途を探らねば有効な対処とはならないだろう。

▼日本の個人と世間

 改めて、日本における個人とは何か。それは自分の「世間」の中にのみ、存在が許されるものである。世間とは所属である。家であり一族であり、学校であり会社であり、都道府県であり国である。もちろん、いま挙げた以外にも多様な所属(世間、共同体)がそれぞれあるだろう。

 自分の世間は多様であり、そのつど伸び縮みする。ある事柄に際して、相対的に自分が属している方が自分の世間である。乗り込んだ電車の中で知り合いと出会えば、それまでの車両というゆるやかな世間が別の世間に一変する。甲子園の高校野球では自県の高校が出場すれば自県が世間だし、オリンピックで日本人が登場すれば、自分の世間は日本だ。

 同じ世間に属する人たちを身内と言う。身内同士ではそれぞれ個人を認め合う。いわゆるホンネが話せる場が出現する。しかし一歩自分の世間を出ると、個人はない。だから、そこでは自分の世間を意識したタテマエしか話せなくなる。世間を越える「社会」での発言は、実は自分の世間に向けたものである(官僚や企業の不祥事についてのあり様をご想起願いたい)。

 この世間の存在は、欧米(=近代)標準から言えば、日本社会の「後進」性を示すものだが、「世間」は日本に限ったことではない。中国や韓国での身内優遇はご存知だろう。「世間」を持つ国の数の多さから言えば、むしろこちらの方こそが世界標準だとさえ言える。

 急ぎつけ加えるが、開き直ろうと言っているのではない。日本人は欧米とは違う社会に棲んでいることを認めること、そしてそこからしか私たちなりの問題解決はできない、ということだ。欧米と同じ地盤に乗っかっているつもりからの「差別をなくそう」では少しも問題は解決しない。

▼日本人の「罪」観

 もとより、日本社会のダメさ加減を言いたいわけではない。西欧生まれの「社会」「個人」「差別」というような言葉を使うとき忍び込んでいる、文化的バックボーンへの無視を指摘しているのだ。言うまでもなく、ケガレは日本人の聖俗秩序観=世界観=人間観と深い関わりがある。

 日本人は、個人では罪を犯さないと考えているのだ。個人の非中心性、さらに人間の非中心性がその背景にある。自然の流れの中に人間があり、個人がある。個人はその大きな流れに流されてゆくものという考えがある。相対的な存在としての人間観がある。世界全体としての自然との関わりの中で、人と人との関わりの中で(文字どおり、人と人の「間」として)個人がようやくあるという考え方だ。

 罪人が属する世間という共同体が罪を犯すのだ。とりわけ、少年たちの凶悪事件が起こる度に、新聞やテレビは学校や教育、家庭や地域社会、ひいては日本社会全体の罪状をなんとか暴き出そうと血眼になる。これは個人の罪をケガレとして拡散しようという「伝統」以外の何者でもない。また、「個人では罪を犯さない」という考えの明白な証左である。罪人を取り巻く世間という大きな流れがその個人にやむなく罪を犯させたという考え方である。

▼あいまいな解決への途

 ケガレ脱却への結論ともならぬが、ひとまずなんとか結びたい。ケガレの集合性とは個人の集合性にほかならない。集合的な個人を単純に解体分離することは日本人にとって非常な困難を伴うばかりでなく、精神文化の甚大な破壊につながるものと思われる。ではどうするか。残念ながら、妙案はまだ浮かばない。

 日本はかつて西欧近代文明を受容し、その果実をみごとに東洋の地に咲かせた。近代化には一種の聖俗分離、つまり合理主義が伴わねば成功しない。しかしながら、いまも述べてきたように日本は一面では今だ呪術の国である。であるなら同様に、罪の聖俗分離=合理化を辛抱強く完遂するしかないのではなかろうか。

 ケガレとは相互排除の構造である。自分の世間から誰かを排除し、また自分が排除される。排除しないことで排除されることを恐れて、誰かを排除するのである。だから、この循環をしだいしだいにあいまいにしてしまうことだ。

 世間の中だけにしかない個人(所属する個人)と、「その世間に所属しない個人=もう一つの私」という二つのものを持つことを、相互に許し合うこと。後者は「もう一つの公=社会」を作ることと同義である。しだいに二重化を大きくして、排除循環を無意味なものにしてゆくこと。あいまいにし、いつしか別の物にしてしまうことは、私たち日本人の常套手段ではないか。こういう回りくどいことを言うのも、少なくとも私には、いまの個人がそのまま欧米流の個人となってゆくとはとても想像がつかないからだ。


(補足としての「公私」小論)

 欧米の公(パブリック=社会)と日本の「公」(おおやけ)とは似て非なるものである(当然、プライベートと「私」わたくしも同様)。日本の「公」とは相対的な大「世間」である。自分が第一に所属する小世間(=私)とは相対的に区別される大世間にすぎない。欧米の公、すなわち均質的で絶対的「社会」ではない。

 それ故、日本の「滅私奉公」という言葉も、第一に所属している小世間(たとえば家族)ではなく、第二次的な大世間(たとえば会社や国家)に所属することを優先するという意味に解釈しなければならない。決して「私=個人」が「公=社会」に奉仕することではない。


[主な典拠文献]

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

  • 作者:阿部 謹也
  • 発売日: 1995/07/20
  • メディア: 新書